2011年7月14日木曜日

『石版東京図絵』を読む 永井龍男 著

『石版東京図絵』は明治後期から大正、昭和の太平洋戦争の敗北までたどった大工職人・由太郎の生き様を描いた小説である。特に、東京に暮らす庶民の風俗や子どもの生活がいきいきと描かれていて、非常に読みごたえのある本だった。

学校が終わると、小さい兄弟の面倒みながら、近所の子どもたちと暗くなるまでベエ独楽やメンコ、石けり、探偵ごっこなどで遊ぶ小学生たち。由太郎の住むのは神田猿楽町。近所の路地や横丁はもちろん、神田明神や湯島天神、御茶ノ水を駆け回り、上野池之端、日比谷公園まで足を延ばす。禁断の場所である皇居の濠で巡査に見つからないように釣りをしたり…。とにかく西へ走り東へ飛んで一日を送る黄金の子ども時代。その情景描写がすばらしい。

そんな由太郎も小学校を卒業すると、大工の父の跡を継ぐため、本郷にある棟梁の家に奉公に行くことになる。明治後期の頃は、上の学校にいく一部の者を除いて、大半は年季奉公に出る。女子でも行儀見習いのため女中奉公に出ていた。12、13歳の子どもが、他人の家で苦労して一人前の大人の仲間入りをしていくのかが、他書の職人に関する本の引用を交えながら描かれていく。

子どものいない棟梁の家に、おかみさんの姪のゆみという娘が養女に入った。人懐っこく明るい娘で、2年間の行儀見習いの後、由太郎と一緒にさせたいと棟梁の家から言ってきた。ただし由太郎を婿養子にという条件付きで。その気で仕事に精を出していた由太郎であったが、ゆみの実母が亡くなると、芸者をしていた姉たちにそそのかされて心変わりをしたゆみは、由太郎とのことを断って芸者になる。

そこから由太郎の人生は少しづつ狂いだし、酒色におぼれる。大阪まで流れていた由太郎には貯えも何もなかったが、関東大震災の飛報を聞き、居ても立ってもいられず、どうにか東京に帰ってきた。由太郎の生家の焼け跡に立ち退き先の板切れが立っていた。本郷の棟梁の家にいる時分から親しかった、職人仲間の卯之吉の名前だった。卯之吉と一緒に震災後の東京でもう一度やり直そうと決心するのだが…。

由太郎が遊び暮らした神田、御茶ノ水、本郷界隈も大きく変わった。東京に生まれた70歳80歳代の人たちはこんな子ども時代を過ごしたのだろうか。今は子どもたちが駆け回れる路地裏は皆無だし、もちろん外で遊びまわる子どももいない。せめて昔の面影を残す路地裏を求めて歩き回ってみたいと思っている。

◯永井龍男

1904年(明治37年)ー1990年(平成2年)。小説家、随筆家。東京市神田区猿楽町(現在の東京都千代田区猿楽町)に、四男一女の末子として生まれる。1911年(明治44年)、錦華尋常小学校へ入学、1919年(大正8年)、一ツ橋高等小学校を卒業。父の病弱のため進学を諦め、米穀取引所仲買店に勤めたが、胸を病み3ヶ月で退職した。同年11月、父没。
直木賞や芥川賞の選考委員を務め、文化勲章(1981年)も受章している。
1965年 第18回野間文芸賞受賞  『一個その他』
1968年 第20回読売文学賞受賞  随筆・紀行賞 『わが切抜帖より』
1972年 第20回菊池寛賞、第24回読売文学賞 小説賞 『コチャバンバ行き』
1975年 第2回川端康成文学賞受賞 『秋』
その他著書多数。

文:長谷川京子

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