2011年10月21日金曜日

佐野眞一著『渋沢家三代』を読む

渋沢栄一は1840年に血洗島(現在の埼玉県深谷市)に生まれる。渋沢一族はこの地の資産家であり、栄一の父も藍玉や養蚕で財をなし、学問や芸事に秀でた人徳のある人だった。

時代は幕末。幕府の権威は低下し、尊皇攘夷か開国かと激しく揺れていた。栄一も水戸学に感化され尊皇攘夷の意気に燃える若者だった。仲間と攘夷のクーデター計画を建てたが失敗し、徳川御三家の一ツ橋家、慶喜公に使える。1867年(慶応3年)1月から翌年11月まで慶喜公の弟君・徳川昭武のパリ万博視察とヨーロッパ各国への訪問に随行。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受け帰国。その間の日本は大政奉還、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争と激動の時代で明治と改元されていた。

異国での知識や体験が、栄一を明治の日本で最も有用な人材に育てるための滋養になった。日本に戻ってからの栄一は超人的な働きをみせる。日本で最初の「会社」といわれる「商法会所」を設立。大隈重信に請われて大蔵省に入り、租税制度改革や貨幣制度改革、銀行条例や廃藩置県に関する諸制度などを立案し、まだ未開の日本を暗中模索で近代化していった。

1873年(明治6年)に大蔵省を辞職。第一国立銀行を創設し頭取になったのが始まりで、以後は実業界に身を置く。栄一が興した企業は東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など多種多様の分野に渡りその数は500以上といわれている。一方で社会福祉、教育などにも力を注ぎ大学や病院などの数多くの事業に関わる。

日本資本主義の育ての親といわれながら、栄一の事業哲学は「余あるをもって人を救わんとすれば人を救う時なし」という論語にあった。三井や三菱財閥のような独占的な企業家になることなく、経済活動で得た富を惜しみなく社会に還元した。また、自分の作った会社に親族を送り込もうとはせず、閨閥づくりで事業の拡大をはかろうともしなかった。

栄一の長男、篤二は栄一の巨大な影に押しつぶされるように遊蕩の世界に溺れ、ついには渋沢家から廃嫡処分を受けるという悲劇的人生を送った。10歳のときに母親に死なれ、父・栄一の再婚に伴い、厳格な姉夫婦に育てられることになった篤二は無条件の母の愛情に飢えていた。高校退学、結婚、別居。芸者とのスキャンダルが新聞沙汰になると、親族は親族会議を開いて廃嫡処分を決定する。

篤二の長男、敬三は父の廃嫡後、若くして渋沢家の当主に据えられた。祖父・栄一の懇願により大学では法科に進み、後に日銀総裁や大蔵大臣にまでなった人物である。しかし戦後、大臣を辞した後、若い頃傾倒した民俗学の研究に心血を注ぐことになる。

著書『渋沢家三代』のなかではとくに、篤二が問題を起こす度に親族が慌てふためき、何とか納めようと心をくだく様子が印象に残る。どれほどの地位と名誉があっても抱える悩みは同じように尽きないということか。

○佐野 眞一氏(さの しんいち)
 1947 年東京生まれ。早稲田大学文学部卒。出版社勤務を経てノンフィクション作家に。
主著に『性の王国』『昭和虚人伝』『紙の中の黙示録』など。『旅する巨人ー宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。

文:長谷川京子

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