2012年3月7日水曜日

台東区浅草 伝法院通り六区通り界隈










浅草は着物姿の粋な女性たちが颯爽と歩く街だ。いろんな所で出会う。仲見世通りを先まで進み、浅草寺に入らず手前を左折すると伝法院通りに出る。約200メートル続く伝法院通りは江戸風の景観に統一された街並みになっている。例えば店の軒先の瓦。店ごとに形状や焼き方を変えた瓦が、瓦職人さんの手により様々な表情に仕上げられている。店先の看板もさまざまな趣向が凝らされているし、呉服屋の屋根には鼠小僧がいたり、シャッター絵の中には江戸の有名人が描かれていたりと見所はたっぷりだ。

江戸時代風のカツラをかぶり、屋台を肩に担いで団子を売る人を見かけた。手作りの珍しい屋台に人だがりができる。担がせてもらっている人が重くて持ち上がらないと叫んでいたが、工夫を凝らした重い屋台はプロの商売人でなくては担いで歩けない。様々な商いが混在しているのが浅草の面白いところ。伝法院通りと交わるオレンジ通り沿いでは、人力車にのる笑顔の花婿・花嫁さんも見かけた。

浅草六区通りには、浅草にゆかりのある渥美清や萩本欽一など33人の有名人のパネルが電柱ごとに掲げられている。明治時代初期に浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、一区から七区までに区画された。浅草寺裏の通称・浅草田圃の一部を掘って池を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成。これが第六区となり見せ物小屋等の歓楽街を形成したという。明治中期に建設された凌雲閣は通称「十二階」と呼ばれた高層ビルでその展望台は観光名所となったが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で崩壊した。大正期の浅草オペラ、昭和初期の浅草レビューと大衆娯楽の中心地で、戦後も様々な芸能の一大拠点としてここからスターとなった芸能人も数多かったが、高度経済成長とともに時代の流行も変化し急激な地盤沈下を迎えたという。

浅草演芸ホール前では賑やかにのぼりが立っている。1年365日休まずいつでも落語の公演を行っている「落語定席」で落語のほかにも、漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねなど、バラエティーに富んだプログラムがある。裏道を通って銭塚地蔵尊へ。石塔の下には「寛永通宝」が埋められているといわれ、これが「銭塚」の名の由来。六区の場外馬券売り場で馬券が当たるようにと祈っていく人が多いという。

※東京都市モノローグ2011年の総集編(漂流する東京)
http://www.utsunomiya-design.com/photograph/tokyophoto1.html
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photo ; 宇都宮 保 
文;長谷川 京子

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