2014年11月12日水曜日

寛永寺の大書院にて文化講演会「江戸のまち」

11月10日(月)に、上野寛永寺の大書院で「江戸のまち」と題して講演会が行われた。上野の山文化ゾーンフェスティバルの一環。講師は寛永寺長臈の浦井正明氏。この日はちょっと風邪気味ということで、声を少し枯らしながらの一時間半の講演だった。

家康入府時代の江戸の町のようすから始まって、どのように江戸が開けていったかを順をおって話された。

初期の江戸はまだまだ広大な武蔵野の一寒村にすぎなかった。日比谷や有楽町辺りはまだ湿地帯で、江戸城の東側はまだ使える土地ではなかった。東京には品川・高輪台地、麻布・飯倉台地、桜田・平河台地、神田・本郷台地、上野・谷中・王子台地の五つの台地があった。その中の神田の台地を削って湿地帯の埋め立て工事を行い、徐々に東に陸地を広げていった。
家康は関八州を秀吉から与えられ、本来なら鎌倉か小田原あたりに居城するべきところだが、江戸に居城したことは、先見の明があった。
江戸の人口は江戸初期は数千人といわれ、1609年には15万人くらい、元禄の1688年頃は80万人くらい、吉宗の世の1720頃は100万人ほど、さらに天保の1840年頃は130万人ほどといわれている。地方からそれぞれの藩がいろんな人間を連れてきて江戸の町はどんどん膨れ上がっていった。18世紀中頃には1600町あったといわれ、今でも神田の練塀町、新宿の箪笥町など残っているが、一つひとつの小さな単位の町だった。

その後は、江戸と上方の経済と文化、江戸の町は巨大な田舎の集合体、江戸の町は男社会、江戸から東京へ、など江戸の歴史を詳しく興味深く講演された。

初期の明治政府はまだ色々なことが混乱していて、政府が落ち着いてきたのは、憲法発布、国会開設が行われた明治21年頃から。明治政府は大名屋敷をみんな壊してしまった。島津邸などは実に素晴らしい屋敷だったというし、浅草にも大きな屋敷があった。残っているのは柳沢吉保の六義園くらい。六義園も渋沢栄一が買い取ったから残ったのであって、明治政府が残したわけではないと言っておられた。

また、上野戦争で敗戦した彰義隊について、新政府軍が総力をあげて戦うような相手ではなかったにも関わらず、ここまで徹底して全滅させるとは、彰義隊の遺族は気の毒だったと言っておられた。

寛永寺での執務の傍ら、上野地域や徳川家などの歴史に関する著書を数多く執筆している浦井正明氏は、住職というより研究家といった風であった。

text;Hasegawa

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